記録

布団と過眠症と私

201026 記録

・理不尽について

近ごろ理不尽についてよく考える。社会人になった友人たちは多かれ少なかれの理不尽にさらされているようだからだ。なにも社会人に限らない。学生仲間にも、理不尽にさらされている人は沢山居る。

同僚が仕事に私情を持ち込んでくるとか、上司が全く理解できない思考回路をしてるとか、仕事を負わせられすぎるとか、人手不足なのに無理矢理頑張らざるを得ないとか、「仲良し」を保つために問題を問題と言えないとか。絶対におかしい。身内の贔屓目を抜きにしてもおかしいと思う。

最も身近な年長者である両親はそれらの理不尽を適当にいなして何とかやっているが、それにしたって理不尽が存在すること自体が理解不能だ。特に、理不尽のためにプライドを捨てなければならない瞬間があることが一番許せない。

 

……やや暴走してしまった。

とにかく、許せないし、許してはいけないと思う。

 

私はとても恵まれている。感じた理不尽に対して「理不尽だ」とカジュアルに言える環境にあるし、理不尽の予感は徹底的に避けてきた。たとえ理不尽に直面して苦しんだとしても「あなたが正しい」と言ってくれる人に恵まれ、「自分が正しい」と思える心の健やかさを保ってきた。(これに関しては、健やかさゆえに逆に誰かを傷つけてしまわないように気を付ける必要がある。別の課題だ。)

 

この世に存在する理不尽は、量が決まっているのだろうか。一定量より少なくなることはないのだろうか。

私は理不尽を避けて生きてきたけれど、私の大切な人達が理不尽にさらされているということは、もしかしたら私が避けた理不尽がバタフライエフェクト的にみんなの理不尽に繋がっているのかもしれない。

心配したところで何か変わるわけでもないのだが、事あるごとに思いだす。

 

仕事について、学問について、社会について、父と議論する時がある。いつも着地点は「社会は根本的に搾取の上に成り立っていて、全く搾取せずに生きるには農業で自給自足する以外にない」という話だ。

30年以上「社会人」として生きてきて、人生で仕事で色々な世界を垣間見てきた父から発せられる言葉の説得力は重たい。

 

どうにか、理不尽を減らすことはできないのだろうか。

ほんの少しでも理不尽を減らして、バタフライエフェクト的に大切な人達に降りかかる理不尽も減らせないだろうか。例えば学問は、もしかしたら理不尽を減らすために存在できるのかもしれない。直接は減らせないけど。

人よりも長く大学に閉じこもって自分の好きなことをしていると、こういう考え事を沢山できるのが良い。考え事を沢山したところで、「社会人経験」が少ないがゆえに社会から評価されにくいという話もあるけれど。

それこそが理不尽だ!

 

おあとがよろしいようで。(よろしくない)

 

 

・減点法よりも加点法で

先日、友人が好きな映画を紹介する時に使っていた考え方「減点法より加点法で見て欲しい」が、すごく気に入っている。

「男らしさ」の過度な強調など、簡単に受け入れがたい「減点」要素も多いが、それ以外の要素がメチャクチャ良いから、「加点法」で見て欲しいということ。だったと思う。

 

だから、私の大切な人達に、良いことが沢山起きますように。

それはそれは大きな悲しいこと辛いことがあっても、少しでも心を温められる良いことが常に起きてくれますように。