記録

布団と過眠症と私

200521記録

・やりたいこと

最近、博士課程という場所に居て一体何がしたいんだろうと自分に問うことが多い。

じつは、何が何でも研究者になってやろうという思いはないからだ。(ここでイラッとした人がいたらごめんなさい。)

 

研究者という存在に求められることは千差万別で、誰かが決めることはできないし、決められるべきではないとも思う。世界の不思議にとりかかるのだから、多様性があってしかるべきだ。それならば、研究者を養成する場である博士課程においても、進路選択にあたってのポリシーのあり方やその中での過ごし方は千差万別でいいはず。

自分の思う過ごし方をして、自分の考えに沿う成長の仕方をした結果、結びつく職業が研究者だったらかっこよくて嬉しいし、もしそうでなくてもそれもまた一つ面白い人生の展開の仕方なのだと思える。それぐらいにしか思っていない。

すごく偉そうなことを言えば、こんなマイペースで奇特な人間が研究の世界に残るのも、もしかしたら世界にとって面白い展開なのかもしれない。とにかく、根源的には何かを面白い展開に持っていきたいだけなのだ。(…は、ちょっと言いすぎたけど。)

 

とにかく、目指す職業ではなく、自分らしい人生の展開の仕方にフォーカスして、今の場所に居る。

 

世の中の人は、そして世の中の研究をしている人は、研究のことをどう思っているんだろう。「そこに山があるから登る」んだろうか。

私にとっては、どうしてもそうは思えない。

もちろん、明らかにしたいことはある。これまで論文を読んできて、きっとこうなるだろうな、と立てた仮説が実験で証明されたら、それはもちろん嬉しい。

でも、研究を通じて、ものの考え方、世界の捉え方、そういうものが自分の中で育つことの方が、今の私にはよほど嬉しい。

 

トラピスト修道院という修道院がある。そこで作られたバターやクッキーはお土産として有名で、厳格な生活の中でそういった品々を作る。その修道院において労働は、(すごく省略すると、)信仰の道をより深めるための手段だ。

以前お世話になった神父様には、生命倫理の研究をしている方もいた。私はなんとなく、その方は研究をすることを通じて神父としてのあり方を深めているのではないか、と感じた。

同列に並べてしまうのは畏れ多いけれど、私にとっての研究はあくまでそういった自分を深めるための手段でしかない。と、思うときがある。

 

じゃあ、その先に何になって、自分の中で育てたものを世の中のために使うのか。ここが難しい。教育か、報道か、はたまた、全然関係の無い世界なのか。

研究の世界にはものの考え方の偏りがある。それと同じく、研究の世界の見方から考えると偏っているなと思う世の中のありかたもある。今はそのギャップに興味がある。ギャップから何か生み出せるのではなかろうかという、根拠のない期待。妄想。

 

こんな奇特な人間も少ないだろうから、この点についてもっと考えていこう。

 

とにかく、周りと存在の仕方が違うことにあまり焦らないようにしたい。私は私。こうして面倒なあり方しかできないのも、私らしさの大事な一要素だ。

可能な限り見守って、本当にダメなときはダメと言ってくれる尊敬すべき先生の下にいるのだから、私らしく沢山遠回りを重ねながら、沢山の模索をしたい。