記録

布団と過眠症と私

200427記録

・同意と認識、認識と配慮

きのう「夫婦別姓」の話になって、気付いたこと。

私は小学校の頃の人生設計が「学部卒で一般職として入社、総合職男性と社内結婚して専業主婦になる」だったことにも示されている通り、なかなか古典的な発想が根底にある激古人間だ。今のところ設計とは真逆の人生になっていることは置いておいて。

だから、結婚すると苗字が夫と同じになるという定例に違和感を覚えたことがない。アカデミアに居る親戚は結婚してからも仕事上の苗字を変えずに論文を書いているし、自分が将来結婚したとして彼女のようにすれば良いか、程度にしか考えていない。

しかしそこが引っかかる人は引っかかるらしい。

そこまでは認識していた。色んな意見があるんだなあと。同意はしないけれど否定する気も全くないし、そういった意見の人にとってもやりやすい社会になれば一番かなぐらいのスタンス。これは最近気を付けていること。認識に同意は伴わない。自分の意見は自分で持ったうえで、他者の意見として一線引いてから認識する。

ただ、「夫に苗字を合わせる前提で来られた瞬間に"ないな"と思う」と言っていた知人がいて、ああ、認識と配慮ってまた違うステップだなと気付いた。

苗字の話に限らず、自分とは違う意見を認識することと、違う意見を持つ人に配慮をするのは、結構大きな違いだ。特に結婚のような、人間関係に関する大きくデリケートな問題であればなおのこと。

わずかな言葉選びの違い、話の順番の違いで生み出された文脈が、受け取り手の中ではある種の「否定」と取られる可能性がある。自分とは違う意見がある可能性を「場の空気」で否定した瞬間に、見えなくとも大きな分断が起こる。

大切だと思うものごとを前にしたときは、心をかぎりなく広く持とう。できるだけ多くの可能性に思いを馳せよう。相手の胸の内が自然とこちらに流れてくるまで、ゆっくりと待とう。

と、妙に大きなスケールでの考え事をしてしまった昨晩。

 

・生活の設計

人間、どうやって自分を律するかというのは二通りあると最近思う。

1つは、強い意志で律する内骨格タイプ。もう1つは、自分の習性をふまえて環境を設計する外骨格タイプ。

私は内骨格タイプの自律をしたいのにできないという負い目を感じながらここまで来た。しかし今突然在宅で黙々とやるという期間を与えられて、外骨格タイプの自律に可能性を感じ始めている。