・理工が怖い
私は少し特殊な経歴を持っている。現在の所属は「理工」だが、元はパッと見で理系には見えないような学部に居た。(内容は結構しっかり理系だった)
そのせいなのか、理工が怖い。
完全に偏見だが、「自分の研究は優れている」とか「自分にはすごい能力がある」とか、そういう風に思っているように見える。「努力すればできる」とか「努力しないとダメ」とか。思ってそう。
この怖さには2種類の説明ができそうだ。
① 雰囲気、意識の違い
最近、「理工」の知り合いができた。
研究の話をしていると「研究室内でもライバル意識がある」という。
うちは、そんなのない。多少あっても言動に現れるほどではない。良くも悪くも。
だから、うまくいかないときは堂々と言って助けを求めるし、すごいと思う人のことは普通にすごいと言う。自分に能力があることは内心信じつつ、あえて表出させることはない。自分一人で「かましてやる」みたいなのはない。一人でかますのは無理だと思っているふしもある。
見栄えは良くないし、短期的な成果は良くないかもしれないけれど、総合点で勝ちたい、みたいな。圧倒的にすごいものは生み出せないかもしれないけど、常に健やかに研究をすることはできる、みたいな。
……だんだん、自分の意識なのか学科の意識なのか分からなくなってきた。少なくとも、私の周りはそんな雰囲気。だから、理工が怖い。トゲトゲして見える。
② 考え方の違い
これは私の完全に適当な仮説。
私は学部生のころ、社会学をそこそこしっかり学んだ時期があった。
その過程で大きく影響を受けたのが、「個人の在り方は、その個人が決めているのではなく、社会によって決められている」という考え方。
社会学とは直接関係のない場面でもこの考え方に基づいて解釈することがある。
研究の成否は個人の努力の結果だけに左右されるわけではない。社会から求められているかどうか(で予算が決まり)、社会に対してうまく説明できるかどうか(で申請書が通ったり論文が通ったりして)、そういった外的な要因が研究の成否に大きく影響するので、個人だけに名誉や責任が集中するのは実態に即していないのではないか。など。
自分の能力をいかに磨くか、ではなく、自分が「活きる」環境・やり方は何か、と考えることのほうがよほど多い。
もしかしたら、これは純粋な「科学」の精神に比して邪道なのかもしれない。
けれど、社会の一員として存在し、科学をする上では、避けられないことなのではないか。少なくとも私は、こうして生きる以外にやり方が分からない。
崇高な精神を追い求めるほど、知力にも体力にも精神力にも恵まれていない。
だったら、健やかに科学をすることを追い求めるのが一番良いのではないか。
国の科学技術政策が注力すべきなのは、「健やかに科学をすること」と「科学を発展させること」をいかに同時に達成するか、ということなのではないか。
「科学」もしょせん、人間の営みの一つに過ぎないのだから。
……話が大きくなってしまった。
そんなことを考えている。
・「無理」って言うタイプ
私はすぐに「無理」と愚痴るタイプ。
ちゃんとやり遂げたいけど、やり遂げる過程で「無理」と言いたい、みたいな。本当に無理なわけではないけど、無理かどうかギリギリのところなんだというのは周りに言いたい、みたいな。
要するに、弱みをどんどん見せたい。
弱みを見せられるって強さを見せたい。(小声)
だから私はこの先の進路、この先で生きる環境を、「無理」って言えるかどうか、で決めたい。一筋縄でいかないことを、何とかしてやり遂げる、その過程を愛せるような環境に居たい。