・研究
昨日は手段だと言ったがやはり研究それ自体も好きなのだなとしみじみ思う不思議な日だった。論文を探していたらどんどん面白いものに出会ったし、単に自分の興味のあるワードで検索しただけでは見つからない、でも自分の興味に近い論文を掘り当ててとても嬉しい。これがあるからやめられん。
好きだなあと思う論文にだいたい名前が出ている人(つまり、たぶん好きな研究者)というのもできた。すごいね。スウェーデンの人でした。
・まなざされること
去年、遠征先で買ったユリイカの「特集 日本の男性アイドル2019」を愛読している。男性アイドルについて、あくまで真面目に論じた一冊。
この中でよく出てくるのが「まなざされる」という表現。表象論?の人にとっては馴染みある単語なのかもしれないが、私にとっては新鮮だったし表現したいことをうまく表現できてる単語だなあと印象に残っている。
そこで思ったのが、研究者もある種世間に「まなざされる」対象であるなあということ。
私は「まなざす」側の視点で自分のことを見る時が一番モヤモヤする。
それこそ、好きな論文とか好きな研究者とか、そういうことを言っている時、常にフワフワした気持ちを抱えている。これは、「まなざす」人に対するパフォーマンスなのではないか?本質的な意味は何もないのではないか?
まなざされること自体は悪ではない。まなざされる中で魅力が磨かれていくのは推しだって同じだ。でも、まなざす側の期待に応え続けるのは、魅力を磨くのとは別の話だし、そういうのには限りがある。ポリシーのないブラッシュアップは意味がない。
その点ケンティーはすごい存在だ。まなざしに愚直に応えることをポリシーとしている感じがする。あそこまで徹底していたら、それはもう本人のポリシーと言わざるを得ない。でもジャニーズが全員ケンティーなのでは意味がないのよね。って何の話だ?寝よう。