記録

布団と過眠症と私

200524記録

・興味の持ちよう

いま、ちょっとボリュームのある論文を読んでいる。

会社員の父から「よくそんなもの読めるなあ」と言われて、「興味があるからね」と返してから、ちょっとハッとした。これ、何に対する興味なんだろう。

 

考えられる可能性は3つ。

1.研究対象そのものへの興味

2.実験への興味

3.研究テーマへの興味

私の中でのカッコよさ度でいくと1→3→2だけど、実際の今の興味の順でいくと3→1→2かも。2を一番上に持ってくるのはなんとなく抵抗がある。実験だけしてても研究にならない、という危機感があるから。

いっぽう私は考え事が多すぎて実験に取り掛かれないというのはあらゆる方向から指摘され、自分でも認めるところなので、2もバカにできないなあ。

1はめちゃくちゃカッコいい。なぜなら、根源的な問いが存在していると思うからだ。しかも、じっくり勉強して勉強して、一周回って分かんない境地に達した先にある感情。私はここを最近掴めそうな、でも慢心していると取り逃がしそうな、微妙な段階にいる。辛抱のしどころだ。

 

 

・「大変だよね~、まあ、私は大丈夫なんだけど」

私は3年くらい前までバリバリにこの論法の使い手だった自覚がある。

自分で言うのもおかしいけどなかなか恵まれた環境で育てられて大事にされてきた。周囲にも恵まれて大切にしてもらってきた。それが嬉しいからこそ、誇らしいからこそ、ありがたいからこそ、見せびらかしたくなる気持ちがある。当然だと思う。

この、見せびらかしたくなる気持ち、ストレートに見せびらかすと「イヤミ」になることぐらいは、頭の中がお花畑状態でも分かる。

だから、大体の場合、「アドバイス」を言う形で自分の経験として見せびらかしていく。善意で言っている、悩める相手を助けようとして言っている、という前提の上にあぐらをかいて、巧妙に織り込んでいくのだ。私の場合、ここに悪意は殆どなかった。妙な爽快感と、ほんの少しの後ろめたい気持ちがあるぐらいだった。この後ろめたさに向き合うことは、怖くてできていなかった。

 

そのうち私も色々な経験を積んで、この論法を聞く側の立場に立てるようになってきた。少しずつ。

これ、やられる側になってみると複雑な気持ち悪さがある。自分の立ち位置が相対的に下がること。自分にないものを見せられること。そして本人に明確な悪意がないこと。誰も悪くない、でも確実に傷つく、気持ちの悪い展開。モヤモヤ製造の永久機関。そんな奇跡的なもんいらねえ!!!

 

気を付けていきたいし、この論法で必要以上に傷つかないように自分の心を守っていかないとね、という記録。