記録

布団と過眠症と私

220620 記録

・結婚と出産について思うところ

 

孤独に対する恐怖と、欲深くなることについて。

 

2年近く前まで、私は一人で過ごしていた。友達付き合いがさほど上手くない上に兄弟もいないので、いつか孤独のまま死んでしまうことを恐れつつ、半分ほど受け容れながら過ごしていた。無理をしてまで誰かと一緒に居るよりは、一人で楽しく過ごした方がいい。

その後、幸運にも素敵なパートナーができ、日々一緒に(物理的に一緒でないことも多いが)過ごしてきた。今では、パートナーの存在を「当たり前」と思えるほど。

 

この時点で、もう十分に恵まれた。もうこのまま死んでしまったとして、孤独をめぐる満たされなさは解決している。

そのはずなのに、自分の脳裏には「結婚・出産」という言葉がちらついてしまう。

 

漠然と、結婚・出産はいつかするだろう、と思ってきた。幼稚園で将来の夢を聞かれた時に、「お嫁さん」とわざわざ答える必要ないだろ、誰でもいつかなる、と思ったくらいには昔から、今までずっと。

そのことについて、ふたつの意味で怖くなる。実現できるか分からない怖さと、思い込んでいること自体に対する怖さ。

そしてそれらに、どうやら一人で向き合わなくてはならないらしい、という孤独。

 

パートナーは、どちらについても積極的に考えたことがないという。その意見も尊重すべきだと思う反面、特に出産にまつわる年齢面での焦りやキャリア形成の見通しを良くしたいという思いからなかなか冷静になれない。もっと主体的に考えてくれ、明確な理由とともに話してくれ、漠然と否定しないでくれ、と言えたらどんなに楽だろうか、と思う自分がいる。

 

理由を求めるのは難しいことだ。私も、なぜ結婚・出産をしたいと思っているか、理由を明確に説明するのは難しい。

母に聞くと「理由なんてない、やってみないと分からない」という。結婚・出産したから私がいるわけで、ものすごく生存バイアスのかかった意見ではある。

 

「やってみないと分からない」という言葉それ自体には同意する。日頃意識して心がけているくらい。

でも、特に出産なんて「やってみる」感覚でやることではないのでは。人間1人の、場合によっては100年くらい続く人生がかかっている。

何かを慈しみたい、という根源的欲求のために、ひとつの命を産み落としてよいのだろうか。エゴになりはしないか。生存・繁栄に腐心しなくなった状況の人間には、そのような元来常に曖昧にされてきた厳しさが襲い掛かっているように感じる。精神的な厳しさ。

 

こうしてひとり静かに焦って、ロジックを組み立てようとしても上手くいかず、次第に焦っている自分に虚しくなって、疲れて気持ちにふたをして、というサイクルの頻度が徐々に高くなってきた。

 

孤独の先にあるのは、次のレベルの孤独だった、ということなのか。そんなに簡単に諦めて良いのか。

 

パートナー氏にも、同じくらい考えていて欲しいのになあ。

(この間、日本人は他人に自分と同じ苦労を強いる傾向にあるのでは、という話を聞いてゾッとした。的中。)