記録

布団と過眠症と私

210926 記録

・キャリアについて

先日の総祈られ事例以降、自分のキャリアについて考えている。

そもそも研究がしたいのか?研究が好きなのか?という前々からの疑問も込みで。

 

研究が好き、というよりも、研究という糸口を通じて人とコミュニケーションをとるのが好きなのだ、という部分が否定できない。

企業での研究にはアカデミア以上にコミュニケーション能力を重視される、とはよく言われるが、それでもやはりある程度の主体性は必要で、私の主体性は「ある程度」のギリギリぐらいなのだろう。

博士課程は「新しいこと」を始めて当たり前。「新しいこと」を成り立たせて当たり前。頭では分かっていたものの、自分が始めた「新しいこと」、もっと追及しなくてはいけない。環境の厳しさ状況の悪さは、結局言い訳にならない。辛抱が続く。辛抱の傍ら、進路探究も続く。正直、苦しい。

 

・大学と企業の違い、あるいはネグレクトと自律心不足との違い

就職活動をしていて気付くのは、一見して広範に思える「分野外就職」にも型があるということ。

今は混乱していてうまくまとまらないが、一定の型がある。その型の中で、自分がどうやって成長していくか、相手の期待の範囲内でアピールしていく。

その型に到達するまでの成長の場が大学ということになるわけだが、ここ数日ずっと、大学の研究の難しさを痛感している。

大学での研究には「評価」と「自己研鑽」が別個に存在している、と思う。ボスからの評価や周囲からの評価で日ごろの研究のしやすさがある程度規定され、そうして作り上げた環境の中で自己研鑽を行う。私は「評価」に偏った観点を持っていて、科学的正しさや科学的新発見よりも「評価」のための研究生活しかしてこなかったかもしれない、と、うすうす思っていたし、それが今回顕在化したような気がする。

ところで私は「目指すべき研究者像」が具体的に描けない。それは研究分野の問題でコミュニティーとしての機能がある学会に所属できなかったこと(理工学と医学の間にある壁、あとニッチトップを目指し過ぎた?)、指導教員が私の研究内容に明るくなかったこと、私の研究内容に明るい共同研究者は海外に居て、コロナ禍で渡航が叶わないこと、などが理由というか言い訳として浮かぶわけだが、やはり原点にあるのは指導教員の指導をあまり受けることができなかった部分のような。どうしてもそのような気がしてしまう。

私が一々指図を受けたくないタイプだ、という自己責任もあるものの、それにしても一人で抱えすぎている気がする。誰に相談してもそれぞれの立場の中で返されてしまう。私の立場になれるのは私しかいなくて、私の将来を考えられるのも私しかいない。誰も私に対して責任を感じてくれない。

社会人としては当たり前なのかもしれないが、まだ一応学生なのでそのあたりの感覚にうまく折り合いがついていない。折り合いがつかないまま、中途採用ぐらいのテンションの就職活動が始まってしまい、いまシンプルに苦しい。

誰か私に対して責任を感じてくれたらいいのにね。

 

という、重たい愚痴の投稿でした。